志村は死なないの!高木ブーはどんな人?リアル高木ブー伝説!

みなさんこんにちは。
早いもので、志村けんさんがお亡くなりになり1年が経過しました。
その人柄を偲ぶ芸能人のコメントがSNSなどで発信されております。

志村さんを偲ぶ声は各方面からも途切れることはなく、その後もその人柄を慕う著名人は尽きません。
その中で、やはり昨年印象に残っているのは、亡くなった直後に偲ぶ番組でドリフターズのメンバー三人が出演しておりました。

加藤茶、仲本工事、高木ブーさんお元気そうで往年の志村さんのコントをとても懐かしく楽しそうに話してました。
その中で高木ブーさんが不意に、「志村は死なないの、ずっと生きてる」と話していたことが印象的でした。とぼけているようで、ハッとさせられるコメント。いないようで存在感を感じたエピソードでした。
ドリフターズ時代から『ただのデブ』と評されながらも
体系を活かした雷様を代表とするとぼけたコントや、ニコニコ、ハワイアンな恰好でウクレレ弾いている。
その独特な空気感でファンを楽しませてくれた高木ブーさんの『存在感』。
あらためて高木ブーとは何者か?みなさんも?なのではないでしょうか。
いてもわからないけど、いないと寂しい高木ブー。
今回は高木ブーさんについて調べてみました。
リアル高木ブー伝説!みなさんもご一緒におつきあいください。

生粋のバンドマンだった高木ブー

高木ブーさんは1933年東京生まれの現在88歳。
本名は高木友之助さん。
東京都豊島区巣鴨で生まれ。
1945年に空襲で焼け出され、千葉県柏に移住。中学三年の時に中学校3年の時。15歳の誕生日にお兄さんからウクレレを贈られたことがきっかけで、ハワイアン・ミュージックに夢中になります。

中央大学経済学部に入学しハワイアンバンドを結成して学生バンドとして活動しました。
東京の激しい空襲で焼け出された経験、学生時代にハワイバンドに夢中になっていたころの心境で興味深いインタビューをしております。

―― 高木さんには、アメリカへの憧れというのはあったんですか?
高木 僕がハワイアンを始めたときは、特別な思いはなかったかな。だって、僕らはアメリカに爆撃されたんだよ。
―― 太平洋戦争が始まったとき、8歳ですよね。
高木 戦争は3年生から6年生まで。空襲のときは、でっかい爆撃機が低空を飛んでくるんだよ。昔の飛行機は装飾するために色を塗ってたけど、銀色のあのまんまだから。バカにされてるって思ったね。そこから、焼夷弾がバサバサ落ちてくる。焼夷弾っていうのは、筒の中にゼリー状の油脂が入ってて、落ちたときにポーンと周りに飛び散って引火するの。あっという間に燃え広がっていく。油だから水かけたって消えないんだよ。巣鴨の家が火事になったときは消そうとしたよ。でも、ドラム缶でもダメ、風呂場の水でもダメ、池の水でもダメ。それで逃げたんだから。悔しかったよ。
―― 高木さんの中では、いろんな思いがあるんじゃないですか?

高木 その国の音楽をやってるんだからね。でもね、日本っていう国は、アメリカが好きなの。戦前には、アメリカ映画の『駅馬車』とか、子供ながらに見に行ってたもんね。西部劇で拳銃をバーンってするのを見て、子供心にカッコいいなあって。兄貴もみんな好きだった。だから、戦争は軍人が始めたんであって、一般の人の思いは別なんだと思う。(文春オンラインhttps://bunshun.jp/articles/-/8307より)

と豊かなアメリカ文化と自らの戦争による体験による複雑な胸中を述べております。

プロのバンドマンとして数々のバンドで活躍、ドリフターズに勧誘される。

さて大学卒業後は東京ガスの採用内定が決定しておりましたが、これを断りプロのミュージシャンの道を歩みます。
おりしも日本は戦後復興とともに、テレビの本放送開始は1953年に開始。メディアの発達とともに空前のバンドブームの最中でありました。数々の音楽バンドが紹介され芸能界創世記ともよばれる時代の始まりを感じされる時代背景でした。
後にエレキブーム、1960年代中期にかけては数人で編成される、演奏および歌唱を行うグループサウンズブームなど多くのバンドの活動しやすい状況でもあり、楽器演奏の人口が急激に増えたころでもありました。
そのような、時代の変化をバンド活動を通じて高木さんも感じたのかもしれません。
芸名は高木智之として「高木智之とハロナ・セレナーダス」「高木智之とハロナ・リズム・コーラス」、「ニュー・フレッシュメン」「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」「ロジェ滋野とシャドーズ」のバンドマンとして、アメリカ軍キャンプ等で演奏するなどの活動を勢力的に行っておりました。

ドリフターズに加入

大学卒業後バンドマンとして精力的に活動していた高木さん。
ジャズ喫茶で演奏をしていたところを前ドリフリーダーでバンドオーナーと、ドリフの新リーダーであるいかりや長介にスカウトされ、1964年にピアニストの欠員補充としてドリフに参加した。(のちにギターとして正式メンバーに、仲本工事は1965年に加入→こちら
そう、当初のドリフターズは演奏前提のコミックバンドという構成でした。
ちなみに、ギャラの話給料の値上げを要求しようとしたが、うまく言い出せず、「娘が産まれたばかりでミルク代がかかる」といった世間話を30分ほども続けた末に、やっと給料の値上げを要求していることをいかりやに気付いてもらえて、ギャラアップで交渉が成立したといかりや長介さんはテレビの番組で話しております。

ザ・ドリフターズとしてコントグループとして。8時だョ!全員集合放送開始

当初高木智之という芸名で参加しておりましたが、高木ブーに改名。
名付け親は同じ事務所の先輩にあたるクレイジーキャッツのハナ肇から、「お前は太っているからブーでいいや」という理由だったとのこと。

コミックバンドから『ザ・ドリフターズ』としてコントグループに変化を遂げたドリフは1969年から開始された『8時だョ!全員集合』で不動のコントグループの地位を築きます。
楽器の腕前を買われてスカウトされたものと思っていたが、後年いかりやにスカウトの理由を尋ねたところ、「太っていてコミックバンド向きの外見だから、新生ドリフにスカウトした」これまた安直な理由だった…。とトホホなエピソードですが。あくまでも冗談まじりが含まれていたように思えます。

実はリーダーの精神的支柱だった?

1984年、全員集合のリハーサル中にアキレス腱を断裂した高木さんは4カ月ドリフから離脱しております。

その頃、頃合として脱退を考えたらしいですが、それを強く引き留めたのはいかりや長介さんだったといいます。
それと当時のメンバーの中で年齢が近かったのもあるとおもいますが。
晩年のいかりや長介さんがドリフターズで愚痴をこぼせる相手は高木ブーさんだったといいます。他のメンバーとは年が離れていて、気軽にぼやけるのはバンドマン時代の苦労を知っていて年齢が近かった高木さんだったからかもしれません。
ドリフの誕生年は以下のとおり。
いかりや長介…1931年生まれ
高木ブー…1933年生まれ
加藤茶…1943年生まれ
仲本工事…1945年生まれ
志村けん…1950年生まれ

いかりやさんとの思い出を高木さんはインタビューでこのように述べております。

かろうじて時間があるのは、土曜日に「8時だョ!」の本番が終わったあと。みんなあっという間に、それぞれ遊びに行っちゃう。僕は長さんに「おい、飲みに行こう」って、よく誘われた。年齢が近かったから、長さんも話しやすかったんだと思う。行くのは普通の居酒屋ばっかりだった。ふたりで飲んでいるときは、長さんは意外と無口なんだよね。でも唯一、僕には愚痴を話してくれたのかな。
高木ブー悲嘆「志村へ。そしてドリフターズ時代のこと」より
https://www.news-postseven.com/kaigo/79472

バンドマンとして信頼できる技術もあるとおもいますが、

後のコントもこなせる柔軟性と何より人柄をいかりやさんは見抜いてのスカウトだったのではないでしょうか。

雷様が代名詞に

さて高木ブーさんといえば『ドリフ大爆笑』赤鬼のいかりや長介さんとご存知の角付き・緑のアフロヘアーのかつらに緑色の全身タイツと虎柄ショートパンツ姿の雷様ですが。
こちらはどのようにして誕生したのでしょうか。
メンバーのスケジュールの調整のの関係でいかりや長介さんと絡むコントで、「給料あげてくれよ」など普段あまりセリフを言わない高木ブーさんが自由にいかりや長介さんと絡むコントが多くの人にツボにはまり好評となり、高木ブーさんの代名詞『雷様』となります。
ご本人も、好きなことがやれて楽しかったとインタビューで雷様の話題になった折に述べております。

高木ブー伝説

私が好きなエピソードで高木ブー伝説があります。
1980年代、ドリフターズの人気は絶大だった時期。一つのバンドが物議をかもす曲が発表されます。
折しも芸能界でも多くのバンドが活躍し80年代後半にバンドブームが起きておりました。
そうした中で大槻ケンヂ率いる筋肉少女帯がメジャーデビューし発表した曲が物議を醸します。はい、『高木ブー伝説』です。
翌1988年初めに筋肉少女帯がテレビ番組に出演した際に演奏した「高木ブー伝説」にドリフターズの所属している事務所である渡辺プロダクションから苦情の電話が入り、(のちに悪戯と発覚する)自主回収という形で販売中止となってしまいます。
のちに、メジャーデビュー後に再度録音するも今度は本当に渡辺プロダクションより正式抗議が来たため再びお蔵入りとなります。

その騒ぎを聞きつけた高木ブーさん本人が「何度も名前を出してくれることで宣伝になるし、若い奴らのやることなのだから笑って許そう」と容認したことで1989年『元祖高木ブー伝説』として正式に発表可能となりシングル発表され、ヒット曲となります。
その後高木さんはこの曲をきっかけに筋肉少女帯のライブに足を運ぶようになるなど筋肉少女帯との交流とセッションを図るようになります。
これに応え、大槻ケンヂも恩返しで経営のバーでのステージ等に自ら進んでゲスト出演するほか、高木への感謝と賛辞を述べております。
この曲を聴いていかりや長介さんは激怒したそうですが、高木ブーさん自身もバンドマンの若い頃の苦労を知るゆえに、先輩として理解をしてあげた度量の大きさを感じます。


出典:https://www.youtube.com/watch?v=L_oVVikXXMk

現在の高木さんの活動

1985年9月28日に『全員集合』が終了し、その後はドリフとしての活動と並行して、単独での活動も開始します。
ウクレレ奏者として1999年4月から6月に放送されたNHK教育テレビ『趣味悠々 高木ブーの今すぐ始めるウクレレ』に講師として出演。(この番組では上記の雷様の扮装をすることもあった。)
CM出演、麻布十番にハワイアンバーを経営するなど幅広く活動します。
2015年6月24日、ベストアルバム「Life is Boo-tiful 高木ブーベストコレクション」が発売。

2020年3月4日、野村義男さんの24年ぶりソロアルバム『440Hz with〈LIFE OF JOY〉』にボーカルとして参加。
2020年12月31日、ももいろ歌合戦に出演など高齢ながら精力的に活動をしております。

多才な趣味…クレー射撃、イラスト

ドリフ時代にいかりやさんから誘われてクレー射撃を始めた高木さん。

メンバー全員がクレー射撃の資格を持っていたが、いかりやさんがメンバーが上達して自分より上手くなると先にやめてしまい。メンバーも徐々にやめたものの、高木ブーさんのみが趣味として継続しておりました。

芸能・文化人射撃愛好会『芸能文化人ガンクラブ』に在籍し、理事長を三橋達也から引き継いで務め、また前会長の森繁久彌に代わり、会長職も代行していたが、現在はヒロミさんが会長職を引き継ぎ顧問に就任しております。

また水彩画系のイラストをたしなむなど、音楽のみならず多才な趣味をもっております。精力的に好きなことを活動している様子は本当に素晴らしいですね。

Instagramより

愛妻家で子煩悩な高木さん

プライベートではドリフのメンバーの中で愛妻家として知られる高木さん。
1962年に知り合い結婚された奥様が1994年に死別時には、激しく悲嘆し離婚も再婚もせず残された一人娘が嫁の結婚相手は自分と一緒に住んでくれる男性で、転勤などのない職業であることが絶対条件とし、実際に娘一家との三世代同居を実現させております。
ちなみに娘さんの高木かおるさんは58歳。電通子会社で広告代理店で働いており、現在はフリーで活躍し高木ブーさんのイベントやプロモーションなどマネジメントをしていいるようです。

健康面では2009年に変形性膝関節症を患い右膝を手術し、2011年には同じく左膝も手術を受ける。また2012年に救急搬送された事が報じられたが、その後は元気な姿を見せております。

まとめ

高木ブーさんについて調べてみました。いかがでしたでしょうか。
高木ブーさんの経歴をしらべてみて、あらためて日本の芸能界の戦後創成期から活躍されていた経歴もさることながら、ドリフターズにとって高木ブーの存在は張り詰めた空気を和ませる、ムードメーカーとしての存在が必要不可欠だったのではないかとおもいました。
ドリフターズのメンバーの中で異質であり俯瞰的な視線で見ていられる存在。
ゆえに、志村けんさんの残した軌跡はこれからも人々の心に残る気持ちが、
志村は死なないの」という言葉になったのではないでしょうか。
バンドマンとして、コントバンドとして活躍してきた高木さんだからこそ言える言葉ではないでしょうか。
これからも、元気に活躍するのを見ていたいと思いました。
そんな思いを見ながら、夜ドリフ大爆笑を見よう思います。
本日はこの辺で
それでは( ´∀` )

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