志村けんがドリフターズにボーヤとして加入した当時の背景は
志村けんさんはドリフターズの付き人で有名ですが、もともとドリフターズは音楽をするバンドでした。
所属していた渡辺プロダクションの社長とする渡辺プロダクションは芸能事務所の草分け的存在として有名です。
渡辺晋がジャズベーシストとして活動していた自らの経験から、ジャズミュージシャンの収入の不安定さや仕事のきつさ、福利厚生の薄さからまだ他が立ち上げていなかった事務所を立ち上げました。
渡辺プロダクションは当時多くのバンドをマネジメントしておりました。
沢田研二が所属していたバンドタイガース、1960年代シャボン玉ホリデーでお茶の間人気バンドとなったドリフターズの先輩的バンドハナ肇とクレージーキャッツなど。
ドリフターズはもともとは音楽バンドであり、コミックバンドでした。
志村さんは1960年代後半、人気絶頂だったドリフターズに憧れ、1968年にいかりや長介さんの家を高校卒業前に直接訪れて弟子入りを志願します。12時間家の前で待つも門前払いされます。
それでも通い続ける志村さん。いかりやさんに何度も断れれても粘る根性をかわれ、その一週間後に電話でボーヤ加入を誘われ加入します。
(ちなみに翌日にいきなり青森巡業…キ、キツイ)ボーヤを仮採用され、加藤茶さんの付き人になります。
後にあまりのボーヤのきつさに一度逃げ出したこともあるそうで、再びドリフに戻るなど厳しい下積みを重ねていきました。
そして、1974年当時のドリフターズ主要メンバーであった荒井注の後任として正式にドリフターズのメンバーに参加。こののちはドリフターズの看板として活躍しました。
その後の東村山音頭のヒット以降、お笑いの階段を駆け上がっていったのは周知のとおりです。
さて、こちらな亡くなる前年の12年ぶりにドリフメンバーと話した貴重な映像です。
出典:https://www.youtube.com/watch?v=sCsz_2Rjgcs&t=5s
加藤さんと話しているとき、仲本さん、高木さん登場の際に立ち上がり丁寧に敬語で話しております。それは成功した今の自分の状況とは関係なくボーヤとしてドリフターズ付き人だった丁寧な姿勢は、ドリフのメンバーとの苦楽を共にした絆を感じられた気がします。
そして本当に自分の仕事に誇りを持ち厳しい方だったのだと思います。
仕事に対する志村さんの人柄が伺えますね。
まとめ
いかがだったでしょうか。ボーヤについて調べてみました。
どの世界はどこも大変なことは変わりませんが、今もボーヤはあなたのそばで明日を夢見て働いていると思うと、普段気にしなかったスタッフも違う視点で見てくるのではないでしょうか。
本日はこの辺で。それでは!( ´∀` )