【映画復活の日】何故角川映画は作ったか?製作費は?トラブルは?

トラブル続出!

撮影中も様々なトラブルが発生します。

南極で座礁

1979年12月に撮影スタッフを乗せた輸送船が南極で座礁します。

撮影スタッフや観光ツアー客の住まいとなった耐氷客船が座礁・浸水し、救援信号を発信。チリ海軍に乗員が救出されるという事故が発生します。(冷戦が背景だったため、ソ連も救難信号を受信して向かっていたため抑留を心配していたそうです。)

共同通信の記者が乗り込んでいたことから一般ニュースとして日本で報道され、『ニューヨーク・タイムズ』の1面でも報じられました。

角川映画の40周年を記念して、「角川映画祭」での俳優の草刈正雄さんで座礁に関してこう述べております。

南極では僕らが乗っていた船が座礁したんです。寝てたらガリガリガリーって大きな音がして船が止まった。大したことないと思っていたのですが、結構深刻な事態だったらしく、ソ連(当時)など各国の船が救助に駆けつけてくれた。結局、僕らはチリの軍艦に助けられました。

船で5m穴が開き再起不能で悲しむ船員がいる中、残りのシーンの撮影をするという状況だったと木村さんはトークショーで述べております。

アンデス山中でヘリコプターが墜落

マチュピチュ遺跡で立ち尽くすわずか数秒のシーンがあります。

俳優の草刈正雄さんは先述のイベントに関しての折、撮影に乗ったヘリコプターが墜落したことを述べております。

アンデス山中のロケでは、僕の乗ったヘリが墜落しました(笑)。大量の核兵器が爆発した後の世界で、僕が独り世界をさまよう場面の撮影でした。

木村大作カメラマンが、ロケハン(撮影の事前調査)したのとは別の2000メートル級の山を指さして「あっちにしよう」と言い出した。「このヘリは小さいので、あそこまで登れない」とヘリのパイロットが言うのに、木村さんが「どうしてもやりたい」と言い張る。それで強行したけれど、天気が急変。あわててヘリで戻ろうと上昇したとたん、ヘタヘタヘタって感じで墜落した。山肌に落ちたので、無傷で済みましたが、一歩間違えたら2000メートル下に転げ落ちていた。あれ以来、高所恐怖症なんですよ。

いやはや、聴く話クレージーなエピソード連発で今なら撮影できないのがわかります。

そのほか、連日お酒で足取りが怪しいハリウッド俳優のグレン・フォードさんを木村大作さんが怒鳴ると帰ってしまったり。お酒を連日飲んでセリフを覚えられず、帰って部屋で泣いていたと作品を振り返って深作監督は振り返っております。)

トラブルは尽きなかったそうですが、何とか撮影を終えて1980年の夏に公開されました。

大作映画製作の終わりと第二次角川映画ブームへ

が…配給収入としては24億円を回収しましたが、製作費以外に広告宣伝費合わせると30億程かかったため、実質利益を回収できず作品は失敗に終わります。

そのため角川映画は復活の日以降、巨額の製作費による大作路線から角川映画は撤退し、低予算映画による映画製作へ方針を変えます。(1990年角川映画)

その後、1983年公開の製作された「セーラー服と機関銃」は制作費1.5億円ながら主演の薬師丸ひろ子のスクリーンのキュートな魅力もあって配収は23億円、興行収入47億円と大ヒット。後に「時をかける少女」「ねらわれた学園」等、第二次角川映画ブームがはじまるのでした。

まとめ

復活の日製作の角川映画について映画の面白さとは違う視点から調べてみました。いかがでしたでしょうか。ちなみにこの映画が終わった後、険悪となった深作監督と木村映画監督の二人は懲り懲りしたらしく、その後緒形拳出演の『火宅の人』で再タッグを組むまで6年間仕事をしなかったそうです。

エピソード含め映画には何気ない映像に膨大な製作費を狂気のような製作にかけたエネルギーを随所映像から見ることができます。

予算無視で壮大なバカバカしさで清々しい振り切った感満載の映像が復活の日は見るだけでも楽しめる作品です。

映像見ると現在ではCGでまかなえそうですが、当時ではリアリティを追求すると実際に現地に行っての撮影や、アナログによる力業で撮影を行ってますのであらためて見ると映像の印象が変わるのではないでしょうか。

1980年で物量を惜しげもなく投入した日本屈指の大作と言えると思います。

ストーリー展開はあえて書きませんでしたので、週末自宅で是非映画を見てくださいね。

それでは!( ´∀` )

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